こんにちは!神谷奈浦子です。
家事や育児を楽しくやれない時・・誰でもあるかと思います。
考えてもみて下さい。
家事や育児といったものは、お金を生み出しません。
しかも24時間労働。
休憩時間すらない日も珍しくありません。
例えば、同じ時間と労力を外で働いたらけっこうな金額を稼ぎ出せると思うんですよね。
そこを無償でやって、
しかもそれを「当たり前」なんてされるわけですから、やってられないと思うわけです。
とんでもない考えだと思いますか?
私は正直、そう思ってしまう自分がいました^^;
そんな、苦しい日が続いていたある日、クリスチャンの方の写真と動画を拝見することがありました。
それを見た時、ふと、この歌が頭に浮かんだんです。
「千の風になって」
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私のお墓の前で泣かないで下さい。
そこに私はいません。
死んでなんかいません。
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「体は死んでも、魂はなくならないから、悲しまないで。」
という内容だったかと思うのですが、
この曲が大ヒットしましたね。
大ヒットした、ということは、多くの人の心が、
「魂はなくならない説は、きっと正しい」と、感じているということと
言えると思います。
キリスト教の「イエスの復活」から始まって、昔から、死んだ人が蘇ったとか、
会いに来てくれた、とかいう話はたくさん存在していますね。
私も、年を経てきて
「これだけたくさんの事例があるなら、あながち嘘でもないかも?」
と思うようになりました。
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秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
(千の風になって)
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人は死んだら、森羅万象に帰るのでしょうか?
そして、愛する人たちの全てをつつんで、見守っているのでしょうか。
この歌は、そういう意味合いを持っていますよね。
でも、「だから愛する人が死んでも悲しまないで。」と言われてもねぇ。
私は、家族が死んでしまったら、それはもう、悲しいと思います。
いくら、身の周りの全てに宿って、一緒にいるんだとしても、
やっぱり、魂だけじゃなくて、目に見える肉体をもって、
一緒に生活してくれているほうが絶対にいいじゃないですか。
そう思うと、肉体を持って、自分の目の前に存在してくれている・・ということが
奇跡のように思えたんです。
家族が、そこに存在してくれているのは「奇跡」だ。
・・という定義に書き換わった瞬間、
そこに、とっても大きな感謝の気持ちが芽生えたんですね。
(クリスチャンではなくて、実家は浄土宗で仏壇があったとしてもです。)
「感謝の気持ち」が湧き出たら・・お返しをしたいと思いませんか?
家族にとって、一番のお礼になることと言ったら・・やっぱり「家事・育児」。
なんと、今まで「過酷な労働」「義務」「不満のもと」だった家事労働が
「奇跡に対する感謝の行為」に変わったんです。
私が孤独でなくて、毎日寂しくなくて、一緒に泣いたり笑ったりしてくれる家族。
一番大切なものに対する、愛情・・とかだと、上から目線なのですが、
感謝となったので、下から崇める感じで、出来るようになりました(笑)。
すでに、一番自分に近いところに「奇跡」が転がっているというのは、不思議なことですよね。